人材版伊藤レポート じんざいばんいとうれぽーと
近年、急速な技術革新やビジネス環境の変化に伴い、企業にとって「リスキリング」の重要性が高まっています。リスキリングとは、従業員の既存のスキルを更新し、新しい能力を身につけさせることで、変化する職場のニーズに適応させるだけでなく、新しい業務や職業にも対応できるようにする取り組みです。
本用語集では、リスキリングと深く関係する「人材版伊藤レポート」の概念を初心者にもわかりやすく解説していきます。
目次
「人材版伊藤レポート」をひとことでいうと?
人材版伊藤レポートとは、「会社の価値を長期的に高めるには、従業員の能力や経験、知識といった「人」に関する資産を大切にし、戦略的に活用することが重要」という考え方を広めるために経済産業省が発表した報告書です。
人材版伊藤レポートの基本概念
人材版伊藤レポートは、企業が持続的な成長を実現するために人的資本経営【1】の重要性を示したガイドラインで、正式名称は「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会報告書」です。
2020年に経済産業省が発表し、企業に対して、短期的な利益を追及するだけでなく、長期的な視点で人材育成に投資することを求めています。
このレポートでは、人的資本への投資が、経営戦略の一環としていかに重要であるかを強調し、企業が人材を活用した持続的な成長を目指すための指針を提供しています。
人材版伊藤レポートの名称の由来
人材版伊藤レポートという名称は、2014年に発表された「伊藤レポート」に由来しています。この元の伊藤レポートは、経済産業省が設置した「持続的成長への競争力とインセンティブ~企業と投資家の望ましい関係構築~」プロジェクトの最終報告書で、一橋大学大学院の伊藤邦雄教授が座長を務めたことから「伊藤レポート」と呼ばれるようになりました。
人材版伊藤レポートは、この「伊藤レポート」の考え方を人材戦略の分野に応用したものです。日本企業の持続的な成長と競争力強化を目指す一連の政策提言として位置づけられており、人材版伊藤レポートは、その流れの中で人的資本の重要性に焦点を当てたものと言えます。
参考リンク:持続的成長への競争力とインセンティブ~企業と投資家の望ましい関係構築~(伊藤レポート)
なぜ、人材版伊藤レポートが作られたのか
背景
人材版伊藤レポートは、急速な技術革新やビジネス環境の変化に対応するために策定されました。特に、デジタル化やグローバル競争の進展に加え、新型コロナウイルスの影響により、人材戦略の必要性が一層高まっています。このパンデミックによって、「企業は従業員のスキルと能力を戦略的に活用し、持続可能な企業価値の向上を図る必要がある」と認識されるようになりました。これに伴い、人的資本に関する議論が活発化し、具体的な指針が求められるようになりました。
目的
企業の持続的成長を支援
短期的な利益追求だけでなく、長期的な視点での人材育成を促進し、企業の持続的な成長を支援することを目的としています。人的資本への投資を経営戦略の中核に据えることで、企業の競争力を強化します。
リスキリングとアップスキリングの推奨
従業員が新しいスキルを習得し、新しい業務や職業に対応するリスキリング【2】や既存スキルを向上させるアップスキリング【3】を推奨し、これらが企業の競争力向上に寄与することを示しています。これにより、変化する労働市場に適応し、柔軟な働き方を促進します。
人的資本の戦略的活用
人材を単なる労働力としてではなく、企業の成長を支える戦略的資源として位置づけ、その活用方法を明確にすることが狙いです。これにより、企業が人的資本を効果的に管理し、成長を加速させるための実践的な指針を提供します。
人材版伊藤レポートの改訂版と経緯のポイント
人材版伊藤レポートは、企業の人的資本経営の推進を目的として、継続的に改訂されてきました。これらの改訂を通じて、理論的な枠組みの提示から、具体的な実践方法の提案、そして最新の経営課題への対応へと進化してきました。
各バージョンは、その時々の経済環境や社会情勢を反映しつつ、企業の持続的な価値向上のための人的資本経営の在り方を示しています。
人材版伊藤レポート(2020年)
人的資本経営の基本概念の提示 • 3P・5Fモデルの導入 • 人材戦略と経営戦略の連動の重要性を強調。初版は、人的資本経営の基本的な考え方と枠組みを示し、企業の意識改革を促すことを目的としていました。
参考リンク:持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会 報告書 〜 人材版伊藤レポート|経済産業省
人材版伊藤レポート2.0(2022年)
人的資本可視化指針の提示 • 人材投資・育成方針の明確化 • 多様性、エンゲージメント、健康経営の重視。2.0版では、初版の概念をより具体化し、人的資本の可視化と効果的な情報開示の方法に焦点を当てています。
参考リンク:人的資本経営の実現に向けた検討会 報告書 ~ 人材版伊藤レポート2.0|経済産業省
人材版伊藤レポート3.0(2023年)
人的資本経営の実践に向けた具体的方策の提示 • デジタル人材の育成・確保の重要性 • リスキリングの推進と学び直しの文化育成。3.0版は、急速なデジタル化や技術革新に対応するため、人材のリスキリングと組織の変革に重点を置いています。
参考リンク:伊藤レポート 3.0(SX 版伊藤レポート)|経済産業省
人材版伊藤レポートの全体像と概要
人材版伊藤レポートは、企業が持続的な成長を遂げるために人的資本をどのように活用すべきかを示す指針として、全3章で構成されています。企業の経営戦略と人材戦略の連動、人的資本の価値の最大化、そして効果的な実行プロセスについて詳しく解説しています。
持続的な企業価値の向上と人的資本
人材版伊藤レポートは、企業が直面する環境変化を踏まえ、持続的な企業価値向上のために必要な人材戦略の変革の方向性を示しています。企業は自社の状況を客観的に分析し、長期的視点で人的資本の強化に取り組むことが求められています。これらの変革は、企業の競争力強化と個人のキャリア発展の両立を目指すものです。
現代の企業環境
- 急激な変化: 新型コロナウイルス感染症、第4次産業革命、少子高齢化など、企業を取り巻く環境が大きく変化しています。
- 人生100年時代【4】: 長寿化により、個人のキャリア観も変化しています。
企業が直面する課題
- 経営と人材の一体化: 経営上の課題と人材面での課題が密接に関連しています。
- 迅速な対応の必要性: 環境変化に対して、スピーディーな対応が不可欠です。
- 企業理念の再考: 各社が企業理念や存在意義(パーパス)を見直す必要があります。
投資家の視点
ESG【5】要因の重視: 特にS(ソーシャル)の重要性が再認識されています。
求められる変革力
- 柔軟な対応: 過去の成功体験に囚われず、変化に柔軟に対応する必要があります。
- レジリエンス【6】の向上: 想定外のショックに対して回復する力を高めることが重要です。
出典:持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会 報告書 ~ 人材版伊藤レポート ~
経営陣、取締役会、投資家が果たすべき役割
人材版伊藤レポートでは、人的資本経営の実践と企業価値の持続的向上を実現するために、経営陣、取締役会、投資家の三者が果たすべき重要な役割を明確に定義しています。これらの主体が協調して行動することで、効果的な人材戦略と企業の長期的な成功につながります。
経営陣の役割
- 人材戦略を経営戦略と一体的に策定・実行する
- 人的資本への投資を重要な経営判断として位置づける
- CHROを中心に経営トップ5C(CEO,CSO,CHRO,CFO,CDO)が連携する
- 人的資本に関する情報開示を積極的に行う
取締役会の役割
- 人材戦略と経営戦略の連動性を監督・モニタリングする
- 経営陣による人材戦略の実行状況を評価する
- 人的資本に関する重要な意思決定に関与する
- 人材戦略と企業価値向上の関連性を確認する
投資家の役割
- 人的資本に関する情報を企業価値評価に組み込む
- 企業との対話を通じて人材戦略の理解を深める
- 長期的な視点で人的資本への投資を評価する
- 人的資本に関する情報開示を促す
出典:持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会 報告書 ~ 人材版伊藤レポート ~
人材戦略に求められる3つの視点と5つの共通要素(3P・5Fモデル)
人材戦略は各企業の経営戦略やビジネスモデルに応じて個別性がありますが、共通する重要な視点と要素があります。これらは「3P・5Fモデル」として整理されています。
人材戦略に求められる3つの視点(3P: Perspectives)
- 経営戦略と人材戦略の連動:
人材戦略が経営戦略を効果的に支援し、実現することを目指します。 - As is – To be【7】ギャップの定量把握:
現状と目標のギャップを数値で明確にし、具体的な改善策を立てます。 - 人材戦略の実行プロセスを通じた企業文化への定着:
戦略の実行を通じて、望ましい企業文化を形成し、根付かせます。
人材戦略の5つの共通要素(5F: Common Factors)
- 動的な人材ポートフォリオ:
環境変化に応じて柔軟に人材構成を最適化します。 - 知・経験のダイバーシティ&インクルージョン【8】
多様な知識や経験を持つ人材を活用し、誰もが活躍できる組織を作ります。 - リスキル・学び直し:
従業員のスキルを継続的に更新し、新しい課題に対応できる能力を育成します。 - 従業員エンゲージメント:
従業員の仕事への熱意と組織への帰属意識を高めます。 - 時間や場所にとらわれない働き方:
柔軟な勤務形態を導入し、生産性と従業員満足度の向上を図ります。
企業は、これらの共通要素に加え、自社の経営戦略に基づいた重要な人材課題を特定し、具体的な戦略、アクション、KPI【9】を設定することが効果的です。このアプローチにより、経営戦略と密接に連携した人材戦略を構築・実行することができます。
出典:持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会 報告書 ~ 人材版伊藤レポート ~
人材版伊藤レポートと国際動向の関係性
人材版伊藤レポートは、企業の成長における人的資本の重要性を示すガイドラインであり、国際的な投資や社会的な動向と大きく関連しています。特に、ESG【5】投資(環境・社会・ガバナンス)やSDGs【10】(持続可能な開発目標)との関連性は、企業がこれらの基準に適応することで国際的な信頼を獲得し、持続可能な成長を達成するために不可欠です。
ESG投資との関連性
ESG投資の視点では、投資家が企業の財務情報だけでなく、環境や社会への貢献、そして人的資本(社員のスキルや働き方)に注目しています。欧米を中心に、企業は人的資本に関する情報を積極的に開示し、持続可能な成長を目指しています。
人材版伊藤レポートも、こうした国際的な潮流に合わせて、日本企業が人的資本の価値を高め、投資家と積極的に対話することを提案しています。これにより、日本企業は国際市場での競争力を高め、信頼を得ることができます。
参考リンク:ESG投資について|財務省
SDGsとの関連性
SDGs(持続可能な開発目標)との関連性も深まっています。SDGsは、国連が提唱する17の目標であり、企業は社会や環境に対して持続可能な貢献を求められています。
特に「8. 働きがいも経済成長も」や「4. 質の高い教育をみんなに」などの目標は、人的資本の開発やリスキリングと直接結びついています。
人材版伊藤レポートでは、企業が持続的に成長するためには、SDGsの目標に沿って、社員のスキルを高め、働きやすい環境を整備することが不可欠であるとしています。
参考リンク:SDGsとは?|Japan SDGs Action Platform | 外務省
経営者・人事担当者のための「人材版伊藤レポート」Q&A
Q1: 「人材版伊藤レポート」は法的な義務なのでしょうか?
A: 法的義務ではありません。しかし、企業の持続的な成長と価値向上のために、自主的な取り組みとして推奨されています。投資家や社会からの評価向上にもつながる重要な指針です。
Q2: 中小企業でも「人材版伊藤レポート」を取り入れるべきですか?
A: はい、規模に関わらず有益です。人材を重要な資産として捉え、戦略的に活用する考え方は、中小企業の競争力強化にも直結します。ただし、自社の状況に合わせて段階的に導入することが望ましいでしょう。
Q3: 「人材版伊藤レポート」をどのように活用すればよいですか?
A: まず、レポートが提案している人材戦略の基本的な考え方を理解することが大切です。次に、自社の経営戦略と合わせて、レポートに沿った具体的な行動を取ることが必要です。例えば、社員の成長をサポートするための仕組みを整えたり、会社の理念に合った人材の活用方法を考えます。また、定期的にその成果を見直し、必要に応じて戦略を修正していくこともポイントです。
まとめ
人材版伊藤レポートは、企業が持続的に成長するために、人的資本をどのように活用すべきかを示した重要なガイドラインです。経営陣は、企業理念や経営戦略と連動した人材戦略を策定し、投資家や従業員との対話を強化することで、企業価値を高めることが求められています。
今後は、AI技術の活用やグローバルスタンダードとの整合性向上など、さらなる発展が予想されます。この取り組みは、単なる人事施策ではなく、企業の持続的成長と競争力強化のための戦略的アプローチとして位置づけられています。企業は、これらの考え方を自社の状況に合わせて導入し、長期的な企業価値の向上を目指すことが重要です。
関連用語
【1】人的資本経営(リスキリング用語集①)
従業員を単なるコストではなく、企業の成長と価値創造の源泉となる重要な資産として捉え、戦略的に活用する経営手法。
【2】リスキリング(Reskilling)
従業員に新しいスキル、能力を習得させることで、職場の変化や新たな業務にも対応できるようにする取り組み。
【3】アップスキリング(Upskilling)
現在の職務や役割でより高度な能力を身につけるため、既存のスキルを向上させたり、新しいスキルを習得したりすること。
【4】人生100年時代
平均寿命が100歳に近づく時代で、長寿を見据えた教育、キャリア、健康管理の重要性を説く概念。リンダ・グラットンとアンドリュー・スコットの著書『ライフシフト』で提唱された。
【5】ESG
環境(Environment)、社会(Social)、ガバナンス(Governance)の頭文字。企業の長期的な成長のために必要な3つの観点。
【6】レジリエンス(resilience)</h6]>
困難や逆境に直面しても、それを乗り越え、適応し、成長する能力。企業や個人の「しなやかな強さ」を指す。
【7】As is – To be
現状(As is)と理想の状態(To be)を比較分析し、目標達成のための戦略を立てる手法。
【8】ダイバーシティ&インクルージョン
多様な背景や価値観を認め、尊重し、それぞれの個性や能力を活かす組織づくりの考え方。
【9】KPI (Key Performance Indicator)
組織や個人の業績を評価するための主要な指標。目標達成度や効率性を測定し、戦略的な意思決定や改善活動の基準となる。
【10】SDGs
Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)の略。国連が掲げる2030年までに達成すべき17の持続可能な開発目標。