伊藤レポートの変遷と発展 いとうれぽーとのへんせんとはってん
近年、急速な技術革新やビジネス環境の変化に伴い、企業にとって「リスキリング」の重要性が高まっています。リスキリングとは、従業員の既存のスキルを更新し、新しい能力を身につけさせることで、変化する職場のニーズに適応させるだけでなく、新しい業務や職業にも対応できるようにする取り組みです。
企業の人材戦略の重要性が増す中で注目を集めているのが「人材版伊藤レポート」です。
その名称の由来となった「伊藤レポート」は、日本企業の持続的成長と競争力強化を目指す政策提言として発表されました。この流れの中で、人的資本に焦点を当てたものが「人材版伊藤レポート」です。
元の「伊藤レポート」と「人材版伊藤レポート」は、公開バージョンが複数あって、内容が混同されることもあります。本用語集では、それらの違いと変遷について、初心者にもわかりやすく解説していきます。
人材版伊藤レポートの全体解説は「リスキリング用語集:人材版伊藤レポート」をご覧ください。
目次
「伊藤レポート」をひとことでいうと?
伊藤レポートは、経済産業省が2014年に設置したプロジェクトから生まれたガイドラインです。一橋大学の伊藤邦雄教授を座長として取りまとめられ、企業の「稼ぐ力」と投資家との対話を基盤に、企業の持続的成長と企業価値向上への道筋を提言しました。
「伊藤レポート」と「人材版伊藤レポート」との違い
伊藤レポートと人材版伊藤レポートは、それぞれ異なる視点から企業価値の向上を目指しています。
伊藤レポートは、日本企業の「稼ぐ力」の向上を目指し、ROE重視とESG投資【1】を通じた企業価値向上を提唱しました。また、投資家と企業の建設的な対話を重視し、長期的な企業価値創造のための具体的な施策や情報開示の在り方についても詳細な提言を行いました。
人材版伊藤レポートは、人材を「資本」として戦略的に捉え、従業員のスキル開発とキャリア支援を通じて、組織と社員の共成長を目指しています。
伊藤レポートが企業経営全般と資本市場を対象としているのに対し、人材版は人的資本の活用と投資に焦点を絞っているという違いがあります。それぞれ互いに補完し合う関係にあり、財務的価値と人的資本を効果的に組み合わせた経営モデルの実現を目指しています。
伊藤レポートの変遷と発展
2014年にはじめて発表された伊藤レポートは、本編と人材版の両方を通じて、日本企業の持続的成長と企業価値向上を目指して、より包括的かつ実践的な提言へと段階的に発展してきました。
2014年8月発表「伊藤レポート1.0」
正式名称:持続的成長への競争力とインセンティブ~企業と投資家の望ましい関係構築~
テーマ:企業の「稼ぐ力」向上とROE【2】の重要性にフォーカスした投資家との建設的な対話
初版の伊藤レポートは、日本企業の「稼ぐ力」の向上と企業価値の持続的成長に焦点を当てました。このレポートは、ROE(自己資本利益率)の重要性を強調し、投資家との建設的な対話の必要性を提起しました。
2017年10月発表「伊藤レポート2.0」
正式名称:持続的成長に向けた長期投資(ESG・無形資産投資)研究会報告書
主要テーマ:ESG(環境・社会・ガバナンス)投資と長期的な経営戦略の構築
伊藤レポート2.0では、持続的成長に向けた長期投資の促進がテーマとなりました。特に、企業と投資家の「協創」による持続的価値創造について、ESG(環境・社会・ガバナンス【3】)投資と長期的な価値創造に焦点をあて、より具体的な提言がなされました。
2020年9月発表「人材版伊藤レポート【4】」
正式名称:持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会 報告書
テーマ:新しい観点「人的資本経営」を導入した企業価値創造における人材戦略
2020年には、人材版伊藤レポートが発表され、それまでの財務・投資中心の視点から、人的資本経営【5】という新しい観点が導入されました。このレポートでは、企業の持続的な価値創造における人材の役割に焦点を当て、人材戦略の重要性を強調しました。
2022年5月発表「人材版伊藤レポート2.0」
正式名称:人的資本経営の実現に向けた検討会 報告書
テーマ:人的資本投資の具体的な測定方法、人的資本に関する情報開示の実践方法
2022年には、人材版伊藤レポート2.0が発表されました。このレポートでは、人的資本投資の具体的な測定方法について、KPI【6】の設定や評価の仕組みなど、より実践的な提案がなされました。また、統合報告書やコーポレートガバナンス【7】報告書における人的資本の情報開示【8】について、開示項目の具体例や望ましい開示方法など、詳細なガイドラインが示されました。
2022年8月発表「伊藤レポート3.0」
正式名称:サステナブルな企業価値創造のための長期経営・長期投資に資する対話研究会(SX 研究会)報告書
テーマ:無形資産や価値協創を通じた企業と社会の持続可能な成長を追求
2022年には、伊藤レポート3.0が発表されました。このレポートは、企業価値創造と人的資本経営を一体的に捉え、サステナビリティ・トランスフォーメーション(SX)【9】を中心に据えた新たな企業価値創造の枠組みを提示しています。
伊藤レポート3.0の位置付け
日本企業の資本効率性や長期成長に向けた投資が伸び悩む中、2014年に発表された初版伊藤レポートは、企業の「稼ぐ力」と投資家との対話を重視し、ROEと企業価値の向上に焦点を当てました。その後、2017年に発表された伊藤レポート2.0では、長期的な価値創造に焦点を移行し、より持続可能な企業成長の視点を提供しました。
一方、国際的な動向において、サステナビリティ【10】課題を巡る状況は企業活動の持続性に大きな影響を及ぼしており、サステナビリティへの対応は、長期的かつ持続的な価値創造に向けた企業経営の根幹をなす要素となりつつあります。
こうした中、経済産業省では、企業や投資家等に求められる取組を具体化させるため、2022年に伊藤レポート3.0(SX版伊藤レポート)を発表しました。
この一連の発展は、企業の「稼ぐ力」から始まり、ESG投資を経て、サステナブル・トランスフォーメーション(SX)へと進化してきました。
伊藤レポート3.0は、持続可能な企業価値創造における人的資本経営の重要性を明確に示し、企業が人材を「資本」として戦略的に活用することで、長期的な成長を目指す方向性を提示しています。
参考リンク:サステナブルな企業価値創造のための長期経営・長期投資に資する対話研究会(SX 研究会)報告書
伊藤レポート3.0 の基本概念
伊藤レポート3.0は、2022年に経済産業省が提言した報告書で、日本企業が中長期的な価値創造を通じて持続可能な成長を実現するための指針を示しています。「SX版伊藤レポート」とも銘された伊藤レポート3.0の主なテーマは、「サステナビリティ・トランスフォーメーション(SX)」であり、企業が社会課題の解決を経営戦略に組み込み、ステークホルダー【11】と協働して価値を創造することを目指しています。
伊藤レポート3.0 の主な提言
サステナビリティ・トランスフォーメーション(SX)
サステナビリティ・トランスフォーメーション(SX)とは、社会のサステナビリティと企業のサステナビリティを「同期化」させていくこと、及びそのために必要な経営・事業変革(トランスフォーメーション)を指します。
SXは、社会と企業のサステナビリティを同期化し、気候変動や人権問題など複雑化する事業環境に対応しながら競争優位を確保することを目的としています。企業は、社会課題を解決することを通じて、成長の原動力となる新たな価値を創出する必要があります。
参考リンク:経済産業省 伊藤レポート3.0(SX版伊藤レポート)|経済産業省
まとめ
2014年に発表された「伊藤レポート」は、「2.0」、「3.0」と段階的に進化し、人材版伊藤レポートを含めた広範な視点で日本企業の成長戦略を提示してきました。これらは、それぞれ異なる焦点を持ちながらも、持続可能な企業価値創造という共通の目標を目指しています。
これら一連の提言は、日本企業が激変する環境に適応し、長期的な視点で成長を実現するための包括的なフレームワークを提示しています。
伊藤レポート1.0が示した「稼ぐ力」の強化、2.0が提案したESG投資と長期的な価値創造、そして人材版伊藤レポートが強調した人的資本経営の導入を統合・発展させることで、企業が無形資産や人的資本を効果的に活用し、社会との協働を深めながら競争力を高めることが、今後の日本企業に求められています。
関連用語
【1】ESG投資
持続可能な社会の実現と企業の長期的な成長を目指すため、環境(Environment)、社会(Social)、ガバナンス(Governance)の3要素を考慮して行う投資手法。
【2】ROE(Return On Equity)
自己資本利益率。株主資本に対する当期純利益の割合を示し、企業の収益性を測る重要な指標。
【3】ガバナンス(Governance)
組織の統制・管理の仕組みのこと。効率的な運営と透明性の確保を目的とする。
【4】人材版伊藤レポート(リスキリング用語集②)
経済産業省が発表した、企業が人的資本を活用し、持続的成長を図るための指針。スキル開発や多様な人材の活用を通じて、競争力強化を目指すことが提言されている。
【5】人的資本経営(リスキリング用語集①)
従業員を単なるコストではなく、企業の成長と価値創造の源泉となる重要な資産として捉え、戦略的に活用する経営手法。
【6】KPI (Key Performance Indicator)
組織や個人の業績を評価するための主要な指標。目標達成度や効率性を測定し、戦略的な意思決定や改善活動の基準となる。
【7】コーポレートガバナンス(Corporate Governance)
企業統治のこと。経営の透明性と効率性を確保し、株主をはじめとするステークホルダーの利益を守るための仕組み。
【8】人的資本の情報開示
企業が投資家や利害関係者に対して、従業員のスキルや育成状況、エンゲージメントなどの人的資本に関する情報を開示すること。
【9】サステナビリティ・トランスフォーメーション(SX)
持続可能な社会の実現に向けて、企業が事業モデルや戦略を根本的に変革すること。環境・社会・経済の調和を目指す経営改革を指す。
【10】サステナビリティ(Sustainability)
環境や社会に配慮しながら、次世代のニーズも満たせる形で長期的に持続可能な発展を実現すること。
【11】ステークホルダー(Stakeholders)
企業活動に影響を与えたり、影響を受けたりする利害関係者。従業員、顧客、株主、取引先、地域社会などが含まれる。